ミリオン・ヒッツ第一号は、CRICKETS(バディ・ホリーが在籍していたことで有名)の「THAT'LL
BE THE DAY」(最高位1位)で57年のことでありました。以降、88年の「PUMP
UP THE VOLUME」まで31年間に953枚のミリオン・ヒッツが誕生しています。 「年別ミリオンセラー推移」を見ると66年から急激にミリオン・ヒッツが増えているのが分かります。57年から65年までの9年間にHOT100にランクされた総曲数は5632曲。うちミリオン・ヒッツに輝いたのは48枚。チャートイン曲に占めるミリオン・ヒッツの割合は、僅か0.85%でありました。しかし、年間総チャートイン曲に占めるミリオン・ヒッツの比率は66年から増え続け(3.5%→4.1%→7.0%→8.5%→8.6%)、72年にはHOT100にチャートインした曲の1割以上(11.9%)が、ピークの79年にはHOT100ヒッツ475曲のうち、実に65枚(13.7%)がミリオン・ヒッツとなる「ミリオン・ヒッツ乱造時代」に突入しました。この勢いは80年代に入り、徐々に弱ってきますが、それでも年間20枚以上のミリオン・ヒッツが生まれていました。しかし、ここ3年間は86年3枚→87年3枚→88年2枚(88年7月2日付けまで)とミリオンセラー最盛期の70年代中盤から見ると隔世の思いがします。 76年にはプラチナ・レコード(200万枚以上の売上)が制定され、JOHNNY TAYLORの「DISCO LADY」がその第一号に輝いています。88年までに42枚がプラチナ・レコードに認定されています。しかし、79年の11枚をピークに減少に転じ、85年の「WE ARE THE WORLD」を最後に200万枚を超える大ヒット曲は生まれていません。チャートマニアとして「▲」マークを見ることが出来ないのは寂しい限りです。
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57年から88年7月2日付けまでNO.1に輝いた曲は699曲。うち54.5%にあたる381枚がミリオン・ヒッツとなっています。意外に少ないという感をお持ちになるかも知れませんが、ミリオン・ヒッツ等の認定機関であるRIAAに加盟していなかったレーベル所属アーティストのヒット曲は、これには含まれていません。例えばシュープリームス、スティーヴィー・ワンダー、ジャクソン5などの多くの黒人スーパーアーティストを抱えていたモータウン・レコードは70年代後半までRIAAに加盟していませんでした。こうしたことから総NO.1ヒットに占めるミリオン・ヒッツの割合は、かなり高くなると思われます。 因みに70年代は253曲のNO.1うち206枚(81%)が、81年には14曲のNO.1全てがミリオン・ヒッツとなっています。 さらにこの枠をTOP10にまで拡げますと、57年から65年までのTOP10ヒット全てがミリオン・ヒッツとなっています。全体を通じても953枚のミリオン・ヒッツのうち、873曲までがTOP10ヒットによって占められています。 一方、TOP10はおろかTOP40にすらエントリーできなかったにも拘わらずミリオン・ヒッツに輝いた曲も4曲あります。
100万枚以上売り上げて何故TOP40にすら入ることができないのか、という疑問も湧きますが、おそらくブラック・アーティストの場合、超大物級でないかぎり、多くのTOP40ステーションでオン・エアされることはなく、チャート集計の重要な要素である「エア・プレイ」のポイントを獲得するこができない、ということではないかと推測されます。 |
5枚以上のミリオン・ヒッツをもつアーティストは34組。以下の表には7枚以上のミリオン・ヒッツを有するアーティストを列挙しました。なお、前述したようにモータウン系のアーティストは、70年代終わりまでRIAAに加盟していなかったため、実質は80年代のみのミリオン・ヒッツとなります。
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※当特集は、関東地区の14大学で構成される「14大学連合TOP40研究会」の89年度機関誌に掲載したものです。したがいまして、データ等は当時(88年7月)のままであります。 |
CHART DATABASE
イギリスで100万枚以上のセールスを記録したシングル
日本でミリオンセラーを記録したアルバム